ブログ更新できておらずでした。ご無沙汰しております、あぱです。
当エントリーは少し暗めで長い話になりますので、シュンとなるかなぁと思った際には是非戻られてください。落ち着いた、もとい落ち着いてしまったので文章化したいという次第です。
端的に結論だけ申しますと、父親が亡くなりました。膵臓癌です。その話をしようと思います。ある種なにかの教訓になれば幸いですし、いい機会だと感じてくれればなおありがたいです。
4月/発覚
父親の癌が発覚したのが、今年の4月1日(前後)でした。当人もきっとエイプリルフールだと思いたかったでしょうけど、3月末に健康診断を受け、受けた健康診断において今年から選択できるようになったらしい、”腫瘍マーカー“という選択肢がふと目に入り、選択したそうです。
父はもともと毎年健康診断は受診しており、健康意識が低いというわけではなかったようです。最も、”バリウムを飲む“検査は飲んだ後が辛く避けていたそうですが、別手段での検査で出来る限りカバーをしていた記憶。
で、今年受ける際にふとに腫瘍マーカーの欄が追加されていた、とのこと。僕から見た父方のおじいちゃんも癌ですし、母方のおばあちゃんも同じく癌。昔亡くなった父の姉も同じく、ということもあり、父の癌に対する意識は低くはなかった…と思っています。発覚後、父も「なぜ普段の検査に標準搭載されていないのか」と憤慨していたのを今となっては悔しく、また正しく思います。
そこからはあっという間と言いますか。その間の行動が僕としてはグッときたので、記録として。記憶として。書き記したいと思う次第です。
4月/判明後
父が癌と判明した直後、家族のLINEにその通知が飛び込みました。今でも覚えています。前職の営業時、遠くてあまり行ったことのない東村山市のショッピングモールの文具屋さんへ営業に行っていました。大きな駐車場で、今日はここから直帰しよう、なんて思っていたときにLINEがきて、しばらく動けなかったことと、無駄に明るい夕日と。
転職しようかな、と悩んでいた時期に飛び込んできた通知に、人生丸ごとを考え始めたことも覚えています。22年大阪で生まれ育ってきて、なぜわざわざ東京にきて、生業にしたいような仕事をするではなく。とどのつまり、なんでだらだら生きてるんだろうと。
対照的に父は、死生観がはっきりしているのを前々から知っていました。冗談と知ってはいましたが、学費や家のローン。明日の仕事は自分次第という自営業という仕事。「自分が死んだら、ローンとかなくなるから楽できるな〜笑」と昔はよく言っていました。それに、たまにチクッとなる心があったことも。
でも正直、その発覚という事実を少し楽観的に見ていたことも覚えています。というのも、がんにもそれぞれあって、ステージで分けられると4段階。いわゆるクリティカルな4とは思っておらず、「まぁ見つかったなら手術して切除が成功してほしいな」なんて思っていましたが、これは次項で打ち砕かれます。
5月/帰省・これからについて
GWということもあり、実家に帰省しました。今まではLINEでの文面のやりとりだったので、帰ってきてどうするのか、どうしたいのかを含めて話を聞きたかったです。開口一番、「癌やって!」というあっけらかんとした発言に僕は豆鉄砲を喰らったような顔をしていたと思います。
とまぁ、先述のこともあり飲み込めない事実ではありませんでしたが、改めて聞くとやはり厳しいなと思いました。
これからどうしようか、という話を家族全員が揃ったタイミングでしました。とはいえ僕自身人が選択することが一番強く美しいと思ってしまっているフシが有るので、どうしてほしい、ということではなく、僕がいない間に決まった方針を聞いたという方が近いですが。こればかりは東京にいるため仕方ありません。
あとは、僕の転職についても報告しました。GWの頃は、前職:【全国転勤ありだから、6月の異動時に大阪、の可能性を高めてもらえるよう交渉する】という可能性が薄い提案に「おそらく辞めないかと思います」なんて言って帰省してきたのですが、父の容態が思っていたより重かったことにより、転職先:【東京で半年~1年研修したら大阪に異動】というほぼ確実な条件が非常に助かる・ありがたいということにシフトチェンジします。前職だとあくまでも可能性、現職は約束してくれました(…とはいえベンチャー気質なので何があるかわかりません)。もちろん、両社間に合わないということも含めて。
僕の父の癌は末期癌というかたちで発見されました。そして、判明後の選択として今後どうしていくか、においては大きく2つ挙げられます。
1つは抗癌剤、強いものを使っていわゆる”延命治療“を行うことです。寝たきり状態になるくらい強いので、意識も有るのか無いのか微妙なかたちが多いです。…語弊はあるかもしれませんが。父(そして僕と上の妹)はそれを「生きているのか」は微妙だと思っていました。
もう1つが父が選択した方なのですが、抗癌剤としては使用しますが、効き目が弱いものを使うということ。治療しないというわけではなく、弱いもので最低限動けるような形の選択を取りました。あくまでも“進行を遅らせる”内容の違う2つの選択肢。
あくまでの選択肢としては“治療を遅らせる”ということしかできません。なぜかというと、末期癌だったからです。…とどのつまりここまででの話で伝えたいことは、癌に関してで言えば、現状の医療技術では【早期発見できるに越したことがない】ということです。
だらっと書いてしまいましたが、要は父は「ステージ4」の、「膵臓癌」が見つかって、「余命が半年から1年」だった。ということです。
5〜7月:転職決意・退職
その件を聞いてから東京に戻りましたが、ずっと上の空に過ごしていました。前職は繁忙期が3~5月ということもあり、決算期がズレていました。6月末頃。そのため、7月はじめから新しい期が始まります。
そしてその1ヶ月前から新人事が発表され、引き継ぎが始まります。…要するには、GW明けごろにはその人事が決まっていることでしょう。対して僕は、そのタイミングでの退職意向でした。迷惑をかけないようにするために早めに行動していたのが、土壇場で遅くなってしまって。課長はじめ、部長、本部長と上層部の方々には偉く迷惑をかけてしまったなと思います。
ましてや、引き留めるためとは思いつつも、様々な人に相談に乗っていただきました。人柄の良さ、器の大きさは重々感じられ、やはり退職を迷った大きな理由の「(業界ひっくるめても)良い人が多い」ということは間違ってなかったんだなと思います。
こうして2年だけですが得た情報は余すことなく後輩に引き継ぎ(のつもり)、退職しました。自分で言ってはいけないですが、寂しさはありました。
ただ、1年目にお世話になった課長に飲みに連れてもらい、頂いた「決めたんだったら寂しいとか言っちゃいけない」との言葉はよく響きました。肝に銘じています。
みんな元気にしてると良いな。
7月:転職、仕事開始
全くの異業種に拾ってもらう形で仕事が始まりました。本当に、縁を大事にしていて良かったと思うばかりです。
前職の知識をフルで生かしている人が部署に多い反面、全く持っての未経験なので東京での研修は当たり前です。が、熟していけないと大阪にはいけない。その思いもあって、必死で勉強しています。加えてふつうに自分の好きなことだったのもあるかもしれません。
ちょこちょこと家族と連絡を取りながら、東京での住処も変え、まっさらな東京生活の2度目を始めることにしました。
部署の方々は優しい人ばかりで。入社前に飲み会を開いてもらったりと、人付き合いの面での居場所には困りませんでした。自分にスキルが無いので、その分での居場所(≒肩身の狭さ)は困りましたけど。今もスキルはないので、インプットは常にしないといけないです。
父は、体調が芳しく無く、寝付きも良くなかったそうです。妹がお香をあげたところ寝やすかったそうで。東京で本当に大好きなKuumbaのお香を贈りました。
8月お盆:帰省
タイミングもあり、夏季休暇をもらい帰省しました。今までの帰省は本当に友達と遊び呆けることばかりでした。父から僕が23歳の夏に言われた「今の時期は遊んどきゃええねん、大事なときに帰ってきてくれれば」ということを間に受けていたので。大事なとき、というのがまさかこうも早く来るとは思っていませんでしたから。
妹たちも学校やバイト、母も仕事と色々バラバラでしたが1日だけ奇跡的に日程を合わせられ、ご飯を食べに行きました。見た目に反して意外とグルメな父に、初めて教えてもらったトンカツ屋さんです。
父は6〜7月にかけて食事制限をしていましたが、痩せ細っていくのを見兼ねた担当のお医者さんに「好きに食べていいよ」と言われていた時期だった(本当は諦められてたのかも知れませんが)こともあり、トンカツを少し食べていました。全部食べきれてはいなかったけど。
あと、今までなかなか社会人らしいことができていなかったので、さらっと会計を済ませてみたのですが、アホかと怒られてお金を渡されました。まだまだ適いそうにありません。
ご飯を食べた後は、夏/お盆にもかかわらず涼しい気候だったこともあり、心斎橋からなんば駅まで歩きました。疲れやすい体になっている父も含め、家族5人で久しぶりに歩いた気がします。
「あんな会計でカードなんか切るなよ~」と言われましたが、僕はデビットカードを切っていました。現金払いと一緒だから大丈夫。と返すと、デビットカードの存在を知らなかったようで、「それはいいな、明日作りに行こう」と言っていました。便利だもんな。早く教えておけばよかった。
途中、体の痛み・コリを和らげたいとのことで、DOCTOR AIRというマッサージ器具屋に寄りました。求めていたものとは違うかったようですが。ふらふらと歩いたのが久しぶりで。言葉にあやはありますが、楽しかったです。お盆も終え、いろいろな話をして。東京に戻ります。
9月・父入院
3連休の合間の日曜日、夜更けに妹から電話がかかってきました。「父が血を吐いた。今から救急車に乗る」。ハッとさせられたものの、どうすればいいかわからない僕は状況を都度都度連絡もらえるよう妹にお願いしました。この日から、妹たち、特に母は毎日病室につきっきりになります。父は入院当初は話せていたようで、少し安心してしまった僕は3連休が明けた日、ひとまず出勤します。(入社して日が浅いのに休むのはどうなんだろう、と思ってしまっていた自分も確かにいました)
出勤して2日目、仕事終わりに電話をかけようと思っていましたが、母から『「〇〇(僕の名前)に会いたいけど、夜行とかでも帰ってこられへんのかなぁ」って言ってる』という連絡がありました。たまらず、雪崩落ちました。
さっきも書いた通り、正直どこかいけるだろう、大丈夫だろうなんて思いを持っていたのですが、こうも言わせてしまうほどに衰弱していること、そしてずっと蔑ろにしていた親孝行をしていない自分が本当に情けなくなりました。
ただ、ここで転職する際に洗いざらい話していたこともあり、課長・部長にご理解頂け、お休みをもらい大阪に戻らせてもらうことになりました。…出勤して2日目の夜、バスで大阪に。朝到着し、…このときは8月の状態の父をイメージしていたので、一旦実家で寝て行くことに。
病院につき、病室に入ると、よくわからないチューブがすべて父のもとへ集まっているのが目に焼き付きました。平日も平日、妹たちは学校やバイトのため、病室では母が仮眠を取っていました。
どうしようもなく椅子に座りつつ父を見ると目を覚ました父と目が合い、(希望的観測も含め)喜んでくれている様子でした。「お~。」話す体力もなかなか無さそうで。そこからは連日病院へ入り浸りです。
水~3連休の月までの6日間。薬の投与で幻覚を見るようになっていく父の姿に目を背けないようしながら、できる限り父の世話をしました。夜中は泊まり込みの母のみ看病できるのですが、薬の影響か眠りも浅く辛い時間だそうで、日中少しでも母を楽にできていればよかったのですが…。介護疲れ、の片鱗を見たような気もします。
入院中はさまざまな友人たちが会いに来てくれていました。まだ僕が小さいときは「自分には友達がいない」とよく嘆いていた(実際その時は顔も強面で、いなくてもしゃーないなんて思っていた)記憶が強かったのですが、ある日を境に始めたSNSで当時の同級生たちと集まれて、親友と呼べる人とも改めて繋がれて。親友の人は横浜在住で教師をしている方でしたが、午後まるごと休んで会いに来てくださっていました。それがどれだけすごいことか、今の僕なら十分に理解できました。
印象深いのが、薬の影響でぼーっとしていた父が、親友の人が入ってきてくれた瞬間に涙が溢れかえっていたことです。親友って、どこか小っ恥ずかしい言葉だと思っていたんですが、僕にとって親友と呼べる人をこれからも大事にしていきたいなと思った次第です。その人が持ってきてくれた写真が遺影になっています。
3連休が終わり、仕事に戻らないといけないと東京に戻ってきた2日後、父は息を引き取りました。
9月末・葬式など
そこからは悲しむ暇もなく式などが執り行われていきました。
…と言っても、父は本当に自分ですべて処理したいタイプなので、葬式の会場やイメージなどはすべてもう用意されていました。母も同席し、担当の方にもすり合わせており。僕に対しては、病室でiPodを渡して「このプレイリストを会場で流して。みんな泣くから」と言っていました。そして、挨拶の文章も用意されていました。どこまでも心配性なんだなと、同時にまだまだ心配させてるんだなと反省も。
LINEの文面で喪主はお前やから、と言われており、ある程度の覚悟をしていました。が、後々PCなどを見ていると母が喪主だったことも想定しており、どっちやねん、となったり。実際は喪主を引き受け、母も黙って任せてくれたことは、ありがたさと、責任をずしりと感じました。
式が終わり、火葬へ(当家は火葬にて埋葬を行います)。一つ一つ儀式を、また1から進めていく全ての工程は、魂や生命を重んじる日本人が死を飲み込むためのものなんだなと、今回の件を過ごして強く感じました。
現在
と、一見は落ち着いているように思えますが、実家に帰り整理をしていく中で父の様々なものを見かけます。
僕が生まれるとわかったときの日記や、その頃の写真。今でこそデジタルに移管してしまっていますが、当時は現像して手元に置くということが主流。アルバムも数冊出てきて、むず痒いですが愛情を十分に受けていたんだなと感じます。正直、妹たちよりも、何倍も。妹たちには申し訳なく思います。兄として情けないが故に。
また、色々な手続きなども難しく、僕としても大阪に戻りながらなのでなにもできていない状況です。母が仕事の合間に手続きを行ってくれていて、まだまだ落ち着きそうにありません。が、体調だけは本当に大事にしてほしく思います。
僕としてできることは将来を見越して早く大阪に戻れるようにすること、もちろん家族を支えつつ。それだけだと思っています。なかなか会社の事情などもありますが、がんばらなければなりません。それが今さらできる親孝行だと思っています。
「大阪で働いたらいいのに、実家じゃなくてもいいから、近くにいたらいいのに」
病室で、意識が朦朧としている父から言われた言葉です。家族のうち、男が僕と父だけだったので、…想像でしかありませんが、ずっと寂しかったのかもしれません。どこかずっと抱えていた後ろめたさが、確信に変わってしまったときでした。後悔などできるはずもなく。ただただ、自分の情けなさに滅入るばかりです。
ただ、最後まで心配をかけた父へ直接は返せませんが、「ええやん」と言われるような大人にならないといけないなと、今回を通して強く感じました。
どうしようもないから。
と、いうことでこれでもちょっと削ったのですが、7000文字近くになってしまいました。ここまで読んでもらっている人なんていないような気もするんですが、いいんです。僕がこの出来事を忘れないようにするために書かせてもらったばかりなので。
たぶん、これくらい方向が自分に向いている記事はnoteとかのほうがいい気がするんですが。父のPCを整理していたら、僕のブログをブックマークしてくれていたので、このプラットフォームで書きたかったんです。
過ぎ去ってしまった日はもうどうしようもないから。僕はそれが早くに来ただけです。なにか思うきっかけになればそれは嬉しい限りです。