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死を持って尊しとなす、話

2016-12-04

最近つるの剛士さんがこういうことを言っていて色々ざわついてますね。

news.livedoor.com

もっともなことを言ってると思いました。

でも謝罪する、っていう世の中ですね。というかそもそもどんな言葉で批判をもらったんだろう。

って思って見に行ったら消しとる。

…っていう、批判して逃げてみたいなヒットアンドアウェイができるような体制が意味不明な言葉の攻撃を生み出すんだと思うんですけどね。

と、いうかそもそも。

今年、生命の終わりに一週間で2度触れている僕にとって、この単語はすごく敏感なわけです。

死ぬ、という単語。

保育園落ちた日本死ね、は確かによく聞いたと思いますよ、ただあくまでもマスコミが取り上げるから聞いたっていう話、周りでそういう言葉遣いをしている人はいなかった記憶があります。

意味は一緒でも、「日本死ね!」なんて現実で吐いてる人そうそう見ないです。地域の問題なのかもしれませんけど。

確かブログに書いたことが取り沙汰されて、それから認知度は上がったけども。

SNSに死ねって書くのと、現実で死ねっていうの、果たしてイコールで結んでいいのかということは結構思います。

死ね、なんて単語S I N Eって打てば出てくるような活字社会で、なんならフリックで二回で出てくるようなスマホ社会ではすぐに出てくる単語です。

で、僕がずっと思っているのが、安直にそこにたどり着きすぎじゃないの、っていう部分でして

嬉しいときの表現を「死ぬほど嬉しい」、

悲しい時「うわ~死ぬ~」、相手に感情をぶつける時に「死ね」、

辛い時に「死ぬ」、

だの、どこもかしこもその単語がはびこりすぎなんが結構おかしいんすよね。

もっと考えろよっていう気持ちと、そのはっきり言って”その程度”に安くなってる命がひどいほど気持ち悪いんですよね。

個人的な話なんですが、夜、今抱えてる腹痛で寝れなくなってしまって、深く考え込んでる時、

「もしこの腹痛が深刻な病気やったら朝起きれないんだろうか」という妄想もあったりします。

僕はそのパタリと終わってしまうことが本当に怖い。

明日も明後日も来週も来年も、いろんな予定がたくさんあって、

そのために今日も生きてるんですけど、

反面、死ねっていう単語が日常に出てくるまでが軽すぎる。

殺す、だとダメだっていう自覚はあるんでしょうか?

あまり出てこないような印象はありますけども。

どちらにせよ、本物の死を理解していないからこそのそれなんでしょうけどね。

僕も理解できているつもりはないですが。

正直この話は僕の感性だけの話で、誰かの生き方を変えてほしいとかっていうわけじゃないんですけど、

ただ正直ふたことめに死ねって出てくるような人のことは心の中で軽蔑してます。

教養がないんだなとか。

言われたときには「こいつ、俺のことをそういうくらいの人間って見てるんやなぁ」って思ったり。

ムカついた時に出てくる言葉、というポジションにすっかり定着してしまった今の現状そのものの時点でもうどうしようもない話だとは思うんですけど。

ただ、比べ物にならない別れを知ってしまったので、そういう単語は使いたくないし、できるだけ使わないようにしたいな、っていうことを書くための雑記でした。